統合参謀本部を率いる
次期大統領ジョージ・ブッシュ(1924-)がパウエルに新しい国家安全保障顧問を指名したいと告げたとき、パウエルは軍隊を辞めて講演や実業界でのコンサルティングで多額の収入を得るという選択もできた。 しかし、パウエルは退役しなかった。 しかし、パウエルは引退せず、陸軍中将以上の将校であるフルジェネラルに昇進して、陸軍の軍司令部を引き継いだのである。 ここでは、米国内の100万人以上の正規軍、予備役、州兵の準備態勢を監督する責任を負っていた。 パウエルは、1989年にブッシュ大統領に指名され、統合参謀本部(JCS:大統領、国防長官、国家安全保障会議に軍事的な情報や助言を与える役割を担う組織)の議長に就任し、より大きな責任を担うことになった。 パウエルは、黒人の将校として初めてこのポストに就いた。
パウエルはJCSの議長として、1989年12月にアメリカ軍がパナマに侵攻し、パナマの軍事指導者であるマヌエル・ノリエガ(1938~)を退陣させる際に重要な役割を果たした。 1983年からパナマ政府を掌握していたノリエガは、1989年初めに大統領選挙を中止していた。 また、ノリエガは、違法薬物の売買などの不法行為にも関与していた。 アメリカ政府がノリエガを打倒したのは、彼をアメリカに呼び寄せて麻薬の罪で裁くこと、アメリカ人を守ること、そしてパナマ国民に自由を取り戻すことが目的だった。 テレビに出演したパウエルは、この作戦の目的を説明し、アメリカ国民の好意的な注目を集めた。
パウエルは、「砂漠の盾」作戦でも注目を集めた。 これは、中東の国、イラクの大統領サダム・フセイン(1937〜)に圧力をかけて、隣国クウェートから軍を撤退させるという、アメリカをはじめとする複数の国による共同作戦である。 イラクは1990年8月にクウェートを占領した。 この作戦は、パナマでの作戦とは異なり、決行までに数ヶ月を要し、イラク人と国際軍との間で戦争が起これば、多くの犠牲者(兵士の死)を出す危険性があることがすぐに明らかになった。
「砂漠の盾」作戦は、1991年1月16日に「砂漠の嵐」作戦となり、6週間にわたるペルシャ湾岸戦争と呼ばれる紛争が始まったのである。 この時もパウエルはリーダーシップを発揮し、イラク軍を瞬く間に壊滅させた。 この戦争での功績により、パウエルは米国議会の金メダルを授与された。